名場面・エピソード

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不運を絵に描いたようなチーム

3度の幻の甲子園出場 全国一不運な甲子園未出場校(1939年夏・1941年夏・1970年春 帝京商)

何度もあと一歩まで行きながら、なかなか甲子園初出場を果たせない学校は全国各地に存在するが、過去に3回も甲子園出場を決定、またはほぼ確実にしていながら、3回とも甲子園が幻になってしまった全国一不運な学校がある。
東京の帝京商は、1939年夏の東京大会で早稲田実、日大三を破って優勝し、悲願の甲子園初出場を決めた。しかし、出場資格のない高等小学校の選手を出場させた問題で出場辞退したのである。ちなみに準優勝の日大三も同じ理由で出場辞退し、甲子園に東京代表として出場したのは早稲田実だった。
過去3回しかない夏の選手権での出場辞退のうちの1つであり、次の夏の選手権での出場辞退は66年後(2005年の明徳義塾)となる。

2年後の1941年夏、帝京商は再び東京大会で優勝し甲子園初出場を決めた。しかし今度は第二次世界大戦の影響で全国大会が中止となってしまったのである。次に甲子園全国大会が行われたのは戦後の1946年夏である。

帝京商工と校名を変え、戦後の復興も進んだ1969年の秋季東京大会で準優勝、決勝も日大三に延長12回の末1−2と善戦した。当時春の選抜の東京枠は2枠あり、選抜出場は確実であり今度こそ甲子園初出場を決められたかと思った。
しかしその年の冬に帝京商工高校で火災事故が発生し、試合に関する資料の一部が焼失したのである。その結果資料不足を理由にまさかの選抜落選となり、東京大会準決勝で帝京商工に直接対決で負けた堀越が選出された。
帝京商工高校はこの決定を不服とし異例の訴訟を起こした。裁判では高野連側が「秋季大会はセンバツの予選ではない。成績優秀と言うだけは出場できない」と主張し、判決では「選抜大会は招待大会である以上、主催者側に従うべき」として帝京商工高校は敗訴となった。

3回も甲子園に嫌われた帝京商工野球部はその後甲子園初出場を果たせないまま廃部となり、帝京大高校に名前を変えて2008年に野球部が復活した。

初出場から7連敗 スタートは同じ県に2度逆転サヨナラ負け(1971年春・1973年春 岩国)

2003年夏の選手権大会で、岩国は同年の選抜優勝校の広陵に逆転勝ちし、常連校福井商に4回に1イニング10得点などで12−4の快勝、ベスト8に進出する快進撃を見せた。しかしそこに至るには初出場から通算8回出場、32年に渡る長い道のりだった。
この大会の1回戦、羽黒に6−0で勝利した試合はただの1勝ではないのだ。実に8回目の出場でつかんだ甲子園初勝利だった。昭和46年春の初出場から苦節32年、当時の最長タイ記録である初出場から7連敗という不名誉な記録に終止符を打った1勝だった(もう1つのタイ記録は長崎の海星)。
その7連敗の始まりとなった最初の2敗は「同じ県の学校から喫した2度の逆転サヨナラ負け」だった。

岩  国 020 000 000 =2
徳島商 000 100 002X=3
(1971年春)
岩  国 000 001 001 =2
鳴門工 000 000 003X=3
(1973年春)

初出場の1971年春は徳島の強豪徳島商と対戦。下馬評では徳島商有利の中、1点をリードして9回裏の守備を迎えた。しかしまさかの逆転サヨナラ負けで金星を逃した。
2年後の1973年春、またしても徳島の代表校の鳴門工という嫌な巡り合わせだった。それでも9回表に追加点をあげ、今度は2点リードで最後の守備についた。しかし2年前の敗戦を意識したのか、3点を取られてまたしても逆転サヨナラ負けを喫した。

1971年春 岩国●2−3徳島商
1973年春 岩国●2−3鳴門工
1993年春 岩国●12−15浜松商
1998年春 岩国●2−9常総学院
1999年春 岩国●2−4水戸商
2000年春 岩国●5−6長野商
2000年夏 岩国●4−14松商学園
2003年夏 岩国○6−0羽黒


元号をまたいで1993年春に20年ぶりの出場を果たすが、浜松商に打撃戦の末敗れまたしても初勝利を手にできず。その後も出場を重ねるが初戦の壁は厚く通算7連敗。8回目の出場となった2003年夏の羽黒戦で悲願の初勝利をあげると、永年の汚名を返上するベスト8進出を果たした。
現在の初出場からの連敗記録は1995年夏〜2012年夏の盛岡大付の9連敗が最長である。

ちなみに岩国は2004年夏も初戦を突破するが、その後は再び勝利から遠ざかり2014年夏まで現在3連敗中。出場12回中初戦を突破したのは2回のみと、やはり勝利に恵まれてないようだ。

バックネット跳ね返り事件(1976年春 弘前工)

昭和51年選抜大会の開幕戦、名門岡山東商と青森の初出場弘前工の対戦で幕を開けた。初回に1点ずつ取り合い、2回裏に岡山東商が勝ち越すとすぐさま弘前工が追いつくシーソーゲーム。
3−2岡山東商リードで迎えた9回表、弘前工は1アウト満塁で一打逆転のチャンス。スクイズの構えをした橘が岡山東商バッテリーのワイルドピッチを誘い、ボールは遠くのバックネットへ。3塁ランナーが躊躇なく本塁突入したが、バックネットに跳ね返ったボールがキャッチャーのミットへ飛び込んだ。本来だったら同点、キャッチャーがボールの処理にもたついている間に逆転かという場面だったが、キャッチャーはそれほど動かず本塁タッチアウト。
思わぬ形で命拾いした岡山東商に対し、2アウトに追い込まれた弘前工は、その直後にバッターもアウトとなり惜敗した。

弘  前  工 100 100 00=2
岡 山 東 商 101 001 00X=3
(1976年春)

完全試合まであと2人から逆転負け事件(1988年春 中京)

昭和63年の選抜、かつて選抜大会の最長時間ゲームを戦った愛知の中京と山口の宇部商が22年ぶりに対戦し、再び球史残る試合となる。
中京の木村龍治、宇部商の木村真樹の同姓投手が投げ合い、中京の木村は79球で1人のランナーも出さないパーフェクトピッチング。8回裏、4番伊藤のタイムリーツーベースでついに中京が先制し、9回表を迎える。
先頭の7番をピッチャーゴロに打ち取って、選抜2人目の完全試合まであと2アウトとなった。迎えた26人目のバッターは8番西田、2ストライク1ボールからの4球目がセカンドベース横を抜ける初ヒットで完全試合は消えた。代打小松にバントで2塁に進められるも2アウト2アウト、それでも勝利まであと1アウトにこぎつけた。続く1番坂本への初球、木村の甘く入った球を坂本はラッキーゾーンに運び劇的な逆転2ラン。目前の完全試合から一転、逆転で負け投手という木村龍治にとっては残酷な結末となった。

宇部商 000 000 00=2
中  京 000 000 010=1
(1988年春)

応援団の悲劇 台風と渋滞で試合に間に合わず(1990年夏 大宮東)

1990年夏の甲子園、初出場の大宮東と1980年春の優勝校・高知商が対戦した。ちなみにこの試合は大会通算2000試合目の記念試合となった。
しかし当日の午前10時32分、試合開始時刻になっても大宮東スタンドに1000人近い生徒や応援団の姿がなかった。実は大宮東の応援バスは台風11号の影響と事故、帰省ラッシュの大渋滞で予定の4時間遅れの走行となっていた。
応援団不在の中、大宮東は優勝経験のある強豪高知商相手に健闘する。1点を先制されて迎えた1回裏、4四死球と4連打で一挙6点を取り、6-1と大きくリードした。もし勝てばこの試合に間に合わなくても、生徒に2回戦の試合を見せることができる。
しかし高知商が3回・4回に1点ずつを開始、6回に岡林のソロホームランで2点差、そして7回表にエラーなどで6-6の同点に追いつかれてしまった。7回裏、大宮東が野瀬のソロホームランで7-6と再び勝ち越しが、8回に高知商が3本のヒットと犠牲フライで7-8と逆転。そして9回に駄目押しの3点を取られ絶体絶命。
9回裏2アウト、試合終了直前に大宮東の応援団が到着。ギリギリで到着した応援団の大声援を受けて大宮東は2アウトから意地を見せ、2アウト1・3塁と攻め立てるも、最後の打者がサードゴロに打ち取られ試合終了。大宮東の生徒たちの夏は到着してわずか数分、3分の1イニングで終わった。

高知商 101 102 123=11
大宮東 600 000 100= 7
(1990年夏1回戦)

時間が正確な新幹線ならこのような悲劇は起きなかっただろう。しかし1000人近い生徒の新幹線の切符を取るのは困難だったのだろう。大宮東は2年半後の1993年春の選抜で見事準優勝し、この敗戦のリベンジを果たした。
それから33年後、再び大宮東と同じような悲劇に見舞われたチームを後述する。

奇跡のバックホーム 10人目の敵は浜風(1996年夏 熊本工)

1996年夏の選手権決勝は、1937年夏以来59年ぶり3回目の決勝進出で悲願の初優勝を目指す熊本工と、1986年夏以来10年ぶりの決勝進出で、1969年夏に三沢との延長18回引き分け再試合を制して以来の27年ぶりの優勝を目指す松山商の伝統校対決になった。
初回に松山商が3点を先制するが、その後松山商は得点できず。一方熊本工は2回と8回に1点を返し、3−2と松山商1点リードで迎えた9回裏。熊本工は2アウトランナーなしと追い込まれ、誰もが松山商の優勝を確信したとき、この試合最初の奇跡が起きる。1年生の代打澤村が起死回生の同点ホームランを打った。3−3の同点で試合は延長戦にもつれ込む。あとアウト1つで優勝というところで追いつかれた松山商の新田投手はその場にひざまずいた。

延長戦は土壇場で追いついた熊本工に流れが行った。10回裏、先頭の星子が二塁打を放つ。松山商は投手を2年生の新田から3年生の渡部に交代し、新田は右翼へ回る。続く園村は送りバントで1アウト三塁。ここで松山商は2人を敬遠して満塁策を取る。そして右翼を矢野に変え、新田はベンチに下がった。
1アウト満塁。先ほどまでの勝利目前から一転、絶体絶命のピンチになった松山商と、土壇場での同点劇から一打サヨナラのチャンスの熊本工。そして熊本工3番の本多の打席で2度目の奇跡が起きた。その初球はライトへの大きな飛球。誰もがサヨナラ犠牲フライで熊本工の優勝を確信した。3塁ランナーの星子が優勝へ向けてタッチアップ。このとき甲子園周辺の浜風はライト方向からホームベースに吹いていた。先ほど代わった右翼手矢野の本塁への返球は浜風に乗って高速で本塁へ。

当時のNHKの実況:「いったー!これは文句なし!」
(右翼矢野がボールを取り、3塁ランナーの星子がタッチアップ)
「しかし戻される。ライト代わった矢野。タッチアップだ、バックホームはどうか」
(矢野のバックホームは浜風に乗って一気にホームへ)
「アウトー!アウトー!」

なんと浜風に乗った返球が3塁ランナーのホームインより一瞬早くタッチアウト。これが今も高校野球史で語り継がれる「奇跡のバックホーム」である。
絶好のサヨナラ機を信じられないスーパープレーで逃した熊本工。一方で松山商は土壇場で追いつかれてから相手に行きかけていた流れを矢野のバックホームで完全に戻した。
直後の11回表の先頭打者は奇跡のバックホームを見せた矢野。レフト前へのヒットで出塁し、9回に同点ホームランを打った左翼澤村の後逸でノーアウト二塁。続く深堀の送りバントのあと、敬遠で1アウト一三塁。星加のセーフティースクイズで矢野がホームイン、松山商が勝ち越した。さらに今井のタイムリーで2点を追加し6−3とした。
11回裏、熊本工は先頭打者が出塁するもその後2アウト、最後の打者境を三振に打ち取り、松山商が27年ぶり5回目の優勝を決めた。浜風という思わぬ敵によって、熊本工は3度目の決勝戦も初優勝を逃した。

松山商 300 000 000 03=6
熊本工 010 000 011 0=3
(1996年夏決勝)

22安打敗戦事件(2002年夏 日章学園)

2002年選手権大会、宮崎の日章学園は好打者瀬間仲ノルベルトを擁して初出場ながら有力校にあげられ、初戦は静岡の興誠との初出場対決だった。
2回に興誠が先制するが、その裏すぐさま日章学園が1点を返し、4回に5安打を集中して同点、5回には8番安富の2ランが飛び出し6-4と逆転した。先発片山が6回に興誠の山中に同点2ランを浴び、代わった小笠原が7回に今泉にタイムリーを許すなど6-8と再逆転されるが、8回瀬間仲の特大2ランで8-8と再び同点。
9回表、興誠が四球・バントに内野エラーによりノーヒットで1点勝ち越したのに対し、9回裏の日章学園は2本の長短打でノーアウト1・3塁としながらスクイズ失敗、飛球をダイビングキャッチした今泉のファインプレイでダブルプレーという最悪の結果。毎回安打且つ先発全員安打の猛攻、相手(9安打)の倍以上の22安打放ちながら13残塁の拙攻が災いし、8-9で敗れた。
一方興誠は9安打のランナーを確実に進めて1点差で勝利。今泉投手は打者48人に対し奪三振0・四死球1・136球の完投勝利で、打者一人当たり平均2.8球の省エネ投球が勝利を呼んだ。

興    誠 040 002 20=9
日章学園 010 320 020=8
(2002年夏)

8点差ノーゲーム事件(2003年夏 駒大苫小牧)

2003年の選手権大会、夏3回目春夏通算4回目の出場で初勝利を目指す北海道の駒大苫小牧は、岡山の倉敷工を相手に序盤から大量リードする。2回、7安打3四死球を絡めて打者一巡13人の猛攻で一挙7得点、3回にも1点を追加する。守っては白石投手が倉敷工を被安打1、四球1に抑え8−0と一方的な展開だった。しかし4回裏駒大苫小牧の攻撃中に接近していた台風による雨でノーゲームが宣告される。
再試合は前日大量リードされていた倉敷工に2−5の敗戦。ルールとはいえ合計10点も取ったチームが5点のチームに負けてしまうとは何ともやりきれない。夏は「降雨コールド・ノーゲームにまつわる事件」で紹介する1993年の常総学院−鹿児島商工以来10年ぶりのノーゲームで、このときも前日4−0でリードしていた鹿児島商工が再試合は0−1で敗れた。今回は史上最大得点差でのノーゲームとなり、駒大苫小牧の選手は大量得点を抹消された精神的な重みがあっただろう。一方前日大量失点した倉敷工の陶山投手はこの日は落ち着いたピッチングで勝利した。

倉  敷  工 000 0=0
駒大苫小牧 071  =8
(降雨ノーゲーム)
倉  敷  工 012 101 000=5
駒大苫小牧 002 000 000=2
(2003年夏)

この敗戦の雪辱に燃えた駒大苫小牧は翌年の2004年の選手権大会に連続出場。初戦で佐世保実に勝利し5回目の出場で悲願の甲子園初勝利をあげると、3回戦で日大三、準々決勝で横浜といった強豪を次々撃破。決勝では春夏連覇を目指す済美に序盤4点をリードされるも、20安打13得点で、13−10の打撃戦の末勝利。なんと北海道勢初の甲子園優勝を達成した。
さらに翌2005年夏は2年生の田中将大投手を擁して57年ぶりの選手権連覇を達成。73年ぶりの3連覇を狙った2006年夏は決勝で斎藤佑樹を擁する早稲田実に延長15回引き分け再試合の末敗れたものの、夏2連覇と3年連続決勝進出と、甲子園の記録にも記憶にも残る戦いぶりだった。北海道の高校野球の歴史を変える快進撃はこの試合から始まったと言っても過言ではない。

春夏連続9回2アウトからの悲劇(2004年 東北)

みちのくの夢を打ち砕いた一発

ダルビッシュ有を擁し東北勢初の全国制覇を目指して甲子園に乗り込んだ宮城の東北は、2003年夏は決勝で茨城の常総学院に敗れ惜しくも準優勝となった。
優勝候補の一角にあげられて挑んだ2004年春の東北は、1回戦で熊本工にダルビッシュの史上12人目のノーヒットノーランで快勝。2回戦で強豪大阪桐蔭に3−2で競り勝ちベスト8に進出した。準々決勝はダルビッシュではなく真壁が先発。初回に大沼の3ランなどで試合を優位に進め、6−2と4点リードの9回裏、愛媛の済美に2点を返されるも2アウトランナーなしと追い込み、あと1人でベスト4進出決定。悲願の白河越えにも一歩近づいたかと思われた。
続く甘井と小松の連打で2アウト1・2塁で3番高橋の打順へ。2ストライクノーボールと追い込み、さらにファールの打球が一塁手のミットに収まりそうになるが痛恨の落球。そして真壁の甘く入った球を痛打された。高橋の打球はレフトを守っていたダルビッシュの頭上を越え逆転サヨナラ3ラン。9回4点差からの逆転サヨナラ負けでまさかの準々決勝敗退となった。
試合後若生監督は「あと1点入るか、あと1人ランナー(サヨナラのランナー)が出たらダルビッシュに代えるつもりだった」と話した。しかし真壁への心情、ダルビッシュを温存したまま勝てるという気の緩みから逆転サヨナラ負け。東北勢のここ一番の詰めの甘さが出てまたしてもあと少しで優勝旗の白河越えを逃した。そして9回4点差からの東北の夢を打ち砕く奇跡の大逆転サヨナラ勝ちをした済美はこの大会創部2年での甲子園初出場初優勝を達成した。

東  北 310 001 010 =6
済  美 002 000 005X=7
(2004年春)

雨中の試合 3試合連続完封目前の悲劇

まさかの4点差からの大逆転サヨナラ負けの雪辱を晴らすべく2004年夏、東北はさらに実力をつけて優勝候補の筆頭として選手権大会に臨んだ。1回戦で滋賀の北大津を13−0、2回戦で石川の遊学館を4−0と2試合連続完封勝利で3回戦に進出。前の試合で同じく完封勝ちした松本を擁する千葉経大付と対戦する。
予想通り0−0の投手戦が続く。均衡を破ったのは東北、7回裏1アウト2・3塁から内野ゴロの間に1点を先制する。8回表、松本に3ベースを浴びるが、スクイズをダルビッシュが落ち着いて処理し同点を阻止した。
途中から降り出した雨が強くなり迎えた9回表、千葉経大付は先頭打者が出塁しバント・内野ゴロ。同点のランナーを3塁まで進めるも、東北としては2アウトに追い込み、ベスト8進出とダルビッシュの3試合連続完封勝ちまであと一人となった。続くバッターを内野ゴロに打ち取ったが、サードが痛恨の落球をしてしまい土壇場で同点に。この落球は雨の影響もあったかもしれない。ダルビッシュの無失点記録は26イニングで途切れ、延長戦に突入した。
延長10回表、ダルビッシュが打ち込まれ、滝沢の2ベースのあと2アウト2塁から代打河野のタイムリーで千葉経大付が2−1と勝ち越し。さらに代わった真壁から川上のタイムリーで3点目を取った。10回裏、東北最後の攻撃はあえなく2アウト、最後の打者となったダルビッシュが見逃しの三振に倒れ、白河の関越えを目指した東北の夏が終わった。
この年の東北にはそれまでの東北勢を上回る打力・投手力があり、最強の実力を誇っていながら頂点に届かなかった。みちのくに優勝旗が渡ったのはそれから18年後のことになる(2022年夏 仙台育英優勝)。

千葉経大付 000 000 00 2=3
東      北 000 000 100 0=1
(2004年夏)

疑惑の四球判定に泣いたチーム(2007年夏 広陵)

2007年の選手権は、同年の選抜直後に発生した特待生問題によって大荒れの大会となった。そんな中行われたこの大会の決勝戦のカードは広陵と佐賀北。
1927年夏と1967年夏に決勝に進出して準優勝している広陵が、40年周期となるこの年に3度目の決勝進出。過去春の選抜では3度の優勝経験があるが、夏は優勝したことがなく、3度目の決勝で悲願の夏初優勝を目指す。
佐賀北は大会前ノーマークでありながら、2回戦で延長15回引き分け再試合を制し、準々決勝では優勝候補帝京に延長サヨナラ勝ち。下馬評を覆す快進撃は「がばい旋風」と呼ばれた。
試合は序盤から広陵ペースで進んだ。2回に広陵が2点を先制、7回に2点を追加し、8回表まで4−0。投げては広陵のエース野村が1安打無失点に抑える。ここまで旋風を起こしてきた佐賀北も広陵・野村の前には手も足も出ない状態だった。

迎えた8回裏、1アウト後佐賀北の久保投手のヒットで出塁すると、新川の連打、辻の四球で1アウト満塁で迎えた井出の打席で明暗が分かれた。野村投手の投球はなかなかストライクを取ってもらえず、ボールが先行。1ストライク3ボールからの5球目もストライクゾーンギリギリに入っていたかと思われたが判定はボール。押し出し四球となり佐賀北が1点を返した。
続く3番副島の打席でその瞬間は起きた。先ほどのボール判定で真ん中に投げるしかなくなった野村投手のボールを今大会ホームラン2本の副島がとらえた。副島の打球は左翼の頭上を越える逆転満塁ホームラン。8回に佐賀北が一気に4点差をひっくり返した。
9回表、1点を追いかける広陵も粘る。先頭の林がヒットで出てノーアウト1塁とし、続く岡田が送りバントが決まる。このとき岡田の打球を佐賀北の三塁手副島が処理していた。これを見た1塁ランナーの林は2塁を蹴って一気に3塁を狙う。佐賀北の一塁手が冷静に三塁に送球しタッチアウト。佐賀北の一瞬の隙を突いた広陵だったが結果的に暴走になってしまった。2アウトランナーなしと追い込まれた広陵は、最後の打者野村が三振に打ち取られ試合終了。広陵はつかみかけていた初優勝を逃した。

広  陵 020 000 200=4
佐賀北 000 000 0X=5
(2007年夏決勝)

8回裏の井出への四球、確かに判定は微妙だった。審判が10人いたらストライクかボールか、判定は半分に割れただろう。ただ特待生問題による私立校への風当たりと、スタンドが佐賀北ホームのムードの中、野村の前に手も足も出なかった佐賀北に1点でも取らせてあげたいという心情が判定に影響したのではないかという意見もある。この1点を与えた判定が、その後副島の満塁ホームランにつながり勝敗まで左右してしまったのは皮肉だ。
誤審が優勝の行方を左右したと言うのは過言にはなるが、広陵にとっては判定に泣いた結果になった。

応援団の悲劇2 今度は新幹線が運休(2023年夏 専大松戸)

大宮東の応援団の悲劇から33年後の事件。2020年の新型コロナウイルス流行以降、初めて声出し応援が解禁された2023年夏の選手権大会の3回戦。選抜ベスト8の専大松戸と、この大会で37年ぶりの甲子園勝利と初の1大会2勝をあげた土浦日大の対戦は「常磐線ダービー」と言われた。しかも専大松戸の持丸修一監督は茨城県出身で、長年茨城の高校で指揮を取り、コーチにも常総学院出身者が多数いるという茨城にとって感慨深い対戦であった。専大松戸は春夏連続で夏は初のベスト8、土浦日大は春夏通じて初のベスト8を目指す。
しかし当日の16時51分、試合開始時刻になっても専大松戸スタンドにブラスバンド、チアリーダー、応援団の姿がなかった。実は専大松戸の応援団は東海道新幹線で関西に向かおうと、午前9時に東京駅を出発する予定だったのだが、東海道新幹線が台風7号の影響で運休したのだ。新幹線は14時10分まで運転を見合わせ、専大松戸応援団の乗った列車が東京駅を出発したのは15時2分。試合が始まった時刻にはまだ名古屋駅の手前だった。その後米原駅で再び長時間停車し、専大松戸応援団の試合中の球場到着は絶望的となった。
応援団不在の中、専大松戸は序盤土浦日大を圧倒する。初回に太田と上迫田のタイムリーとスクイズで3点を先制すると、3回表には宮尾のタイムリーなどで3点を追加し、序盤6-0とリードした。
しかし3回裏、香取のタイムリーで1点を返されると、守備のミスが相次ぎ一挙5点を取られ1点差まで迫られる。さらに4回に香取のタイムリーで同点、そして5回に押し出しと後藤の2点タイムリーで逆転された。8回にも1点を追加され、6-10で逆転負け。結局専大松戸のブラスバンド、チアリーダー、応援団は試合終了まで間に合わず、新大阪駅で専大松戸の敗北を知って涙を流したのだった。

専大松戸 303 000 000= 6
土浦日大 005 130 01X=10
(2023年夏)

1990年夏の大宮東はバス移動の結果渋滞という悲劇を招いたが、専大松戸は今度は新幹線を選択した結果の悲劇とは皮肉なものだ。

無情を絵に描いたようなチーム

王者への挑戦 無情の結末(1984年春 都城)

前年1年生のKKコンビで優勝した大阪のPL学園が、この選抜大会でも前評判通りの強さで勝ち上がる。最強の王者に準決勝で宮崎の都城が挑戦した。
PL学園桑田、都城田口の投げ合いで0−0のまま延長に入り、11回裏を迎える。先頭の松本がフォアボールで出るが、旗手の送りバントが失敗に終わり、4番清原の左中間を抜いた打球はレフトのファインプレーで2アウトとなる。続く桑田の打球は平凡なライトフライ、3アウトチェンジと誰もが思った。しかしライトの隈崎が落球、2アウトだったため既にスタートを切っていた1塁ランナーは一気に3塁を回り、バックホームも間に合わずサヨナラのホームイン、PL学園の決勝進出が決まった。王者を苦しめた都城は無情にもエラーで金星を逃した。
隈崎選手には大会後励ましの手紙が多く寄せられた。励ましを受けて都城は夏もPL学園と再戦するが9−1で敗れている。

都  城 000 000 000 00 =0
PL学園 000 000 000 01X=1
(1984年春)

史上最悪のピッチャーゴロ(1987年夏 徳山)

1987年の選手権大会に初出場した山口の徳山は、1回戦で東海大山形と対戦した。東海大山形は1985年夏、あのPL学園に29−7の記録的大敗を喫した学校で、今回その汚名返上の初勝利を目指していた。
投手戦となり両チーム無得点で迎えた7回表、徳山は4番鶴本のホームランで1点を先制した。そして9回表、東海大山形は1番からの好打順である。
1アウトから宝角が左中間のスリーベースを放ち、1アウト3塁とする。しかし続く3番畑地がファーストゴロに倒れ、3塁ランナーは走れず。そして4番渋谷を徳山のエース温品がピッチャーゴロに打ち取った。東海大山形、万事休す!誰もが試合終了を確信したが・・・

当時のNHKの実況:「詰まった当たりピッチャーゴロ」
(温品1塁へ送球する。が、しかし・・・)
「あぁー!同点!よもや、まさか、これで同点1−1。勝ったと思ったピッチャーの温品、思わず高い球を投げました。」
当時のABCの実況: 「ショートゴロかピッチャーゴロ・・・たかぁーい!3塁ランナーホームイン!甲子園は魔物!」

なんと1塁への送球が高く逸れてしまった。3塁ランナーが還って同点、バッターランナーも2塁まで進んだ。さらに赤城のセンター前タイムリーで逆転。わずか数秒の間に勝敗が入れ替わっていた。
9回裏徳山最後の攻撃は、1アウト3塁のチャンスを作るも、ライトフライ&タッチアップを狙った3塁ランナーが本塁憤死でダブルプレーとなり試合終了。徳山にとっては悔やんでも悔やみきれない敗戦となった。

東海大山形 000 000 00=2
徳      山 000 000 100=1
(1987年夏)

東海大山形はその後3回戦まで進出。山形県勢は前年まで8年連続で初戦敗退しており、翌年以降も3年連続初戦敗退。この悪送球がなければ当時史上最長となる12連敗を喫していたことになる。また全都道府県で唯一20世紀にベスト8を経験してなかった山形県は、2004年選抜で東海大山形によって初のベスト8進出を果たしている。一方徳山はこの大会のみしか甲子園に出場していない。

逃げていった初優勝(1989年春 上宮)

1989年の選抜大会、決勝は前年も決勝に進出した愛知の東邦と、好投手宮田・スラッガー元木・種田を擁する大阪の上宮の対戦だった。勝てば上宮は初優勝、東邦は48年ぶり4度目の優勝。
5回表にスクイズで上宮が先制、その裏タイムリーで東邦が追いつき1−1のまま延長に入る。10回表、岡田のサード強襲のヒットで貴重な上宮が勝ち越し点。
10回裏、東邦は先頭バッターを出すもセカンドゴロダブルプレーで2アウトランナーなし、初優勝まであと一人とした。しかし宮田投手が優勝目前でストライクが入らなくなりストレートのフォアボール、さらに内野安打で2アウト1・2塁とサヨナラのランナーが出る。続く3番原のセンター前ヒットで東邦が土壇場で同点に追いついた。
ここで一塁ランナーが二三塁間に挟まれ、3アウトチャンジかと思われたが…

当時の実況: 「そしてランナーが挟まれているボールが2塁へ、あぁ逸らした、逸らした!サヨナラのランナーになる。ボールが遠い、逃げていく、ボールが逃げていくライトへ。」「ランナーがホームへ向かう…。サヨナラ、あまりにも可哀想。」

サード種田の2塁悪送球、カバーに入ったライトも後逸。優勝まであと一人から追いつかれ、最後は痛恨のエラーでサヨナラ負け。上宮は初優勝を悲劇的な形で逃してしまった。

上  宮 000 010 000 1 =2
東  邦 000 010 000 2X=3
(1989年春決勝)

甲子園史上初のサヨナラボーク、原因はサイン盗み(1998年夏 宇部商)

1998年夏の選手権第80回記念大会の悲劇。2回戦で古木克明を擁する強力打線の愛知の豊田大谷と、山口の宇部商が対戦した。
宇部商の2年生エース藤田が8回まで豊田大谷を1点に抑え、2-1と宇部商1点リードで迎えた9回裏、豊田大谷2アウト1・3塁から勝負のダブルスチールを仕掛ける。これが成功し豊田大谷が土壇場で同点に追いつき、2-2で延長戦へ。延長戦に入ると両チームゼロ行進が続き、延長15回へ。
延長15回裏、豊田大谷は左中間安打とセカンドゴロエラーでノーアウト1・3塁のサヨナラのチャンスを作る。ここで宇部商は満塁策を取り、ノーアウト満塁。宇部商にとっては絶体絶命のピンチ。豊田大谷7番打者へ、カウント2ストライク1ボールから藤田が211球目を投じようとセットポジションに入り腕を少し前に出したが、キャッチャーの複雑なサイン動作に、藤田は無意識に投球動作を中断して腕を後ろに戻してしまった。これが「投球動作の中断」としてボークを取られ、3塁ランナーがホームイン。春夏通じて甲子園史上初(現時点で史上唯一)のサヨナラボークという無情の結末で延長15回の激闘は幕切れとなった。

宇  部  商 000 011 000 000 000 =2
豊 田 大 谷 000 001 001 000 001X=3
(1998年夏)

甲子園史上唯一のサヨナラボーク、原因は豊田大谷のサイン盗みだった。豊田大谷が2塁にランナーを送ると打者にジャッジで球種を伝えてることに宇部商の上本捕手が気付いたのである。それでサインが複雑化し、戸惑った藤田投手の投球動作の中断を誘う結果になった。
その後高校野球では試合の長時間化とサインの複雑化を防止するためサイン盗みが禁止となった。2013年夏の花巻東がサイン盗みをしたとして注意を受け、2016年は済美がサイン盗みを理由に選抜から落選している。

悪夢三たび 4季で3度のサヨナラ負け(1999年夏 明徳義塾)

寺本四郎を擁した前年1998年、春はPL学園に9回表に勝ち越しながら9回裏に押し出しで同点を許し、延長10回サヨナラ負け、夏は横浜に6点リードから逆転サヨナラ負けを喫した明徳義塾。春も夏もサヨナラ負けという悲劇の雪辱を晴らすべく迎えた1999年夏の甲子園は、またしても悪夢に見回れた。
初戦を突破し2回戦で長崎日大と対戦。序盤4点を先制され、3回に3点を返すと、6回に松本の同点タイムリーと井上のタイムリーで5−4と逆転した。1点リードの8回裏、長崎日大に左中間への同点タイムリーで追いつかれ5−5の同点で延長戦に突入する。
9回、10回とサヨナラのランナーを出すたびによみがえる前年の悪夢。延長11回裏、1アウト3塁と絶体絶命のピンチ。三木が投じた初球が井上捕手のグラブを弾いてバックネットへ転々、まさかのサヨナラ捕逸となってしまった。明徳義塾は三たびのサヨナラ負け、1998年春から4季連続出場でうち3度サヨナラ負けで敗退した。

明徳義塾 000 302 000 00 =5
長崎日大 310 000 010 01X=6
(1999年夏)

珍記録 サヨナラゲーム三すくみ

明徳義塾は1998年夏の1回戦では桐生第一に延長10回6−5でサヨナラ勝ち、1999年春の1回戦で滝川二に延長10回3−2でサヨナラ勝ちしていて、1998年春から4季連続で5試合のサヨナラゲームを経験した。
その「サヨナラの明徳」によってさらにもう1つ別の珍しい記録が生まれた。明徳義塾はこの年の春は滝川二にサヨナラ勝ち。夏は2回戦で上記のように長崎日大が明徳義塾にサヨナラ勝ちし、続く3回戦で滝川二が長崎日大に3−2でサヨナラ勝ちした。明徳義塾・滝川二・長崎日大で「サヨナラゲーム三すくみ」という結果になったのである。

投手を使い果たし…(2006年夏 帝京)

2006年の選手権大会、ともに強打と継投で勝ち上がった帝京と智弁和歌山が準々決勝で球史に残る死闘を演じた。
序盤から智弁和歌山打線が爆発し、馬場(2本)・広井のホームランなどで8-2とリードする。帝京は先発が高島、2番手が垣ヶ原、3番手が大田と継投していた。8回表、帝京も塩沢の2ランホームランで4点差とし、8-4で9回を迎える。
最後の攻撃で後がない帝京は、先頭の大田に代打沼田を送ったが内野ゴロに終わる。不破のライト前ヒット、勝見のデッドボールで1アウト1・2塁とするが、続く野口が三球三振に倒れ2アウトと追い込まれた。ところがここから帝京の猛攻が始まる。4番中村のタイムリーで1点を返すと、塩沢の三遊間を抜けるヒットで満塁。雨森・我妻の連打で1点差に迫り、1年生杉谷の2点タイムリーで逆転。そしてこの回2打席目となる代打の沼田が3ランホームランを打ってこの回8得点。智弁和歌山はピッチャーを松本に変え、続く不破を初球で打ち取る。12-8と逆に帝京が4点のリードを奪って9回裏の守りにつく。

しかし大田投手に代打を送ったことにより3人のピッチャーをベンチに下げてしまった帝京は、センターの勝見をマウンドに送る。智弁和歌山の上羽・広井がフォアボールで出ると、4番橋本の3ランホームランで1点差。続く亀田にもフォアボールを与えたところで勝見は降板し、ショートの杉谷が登板する。初球が松隈の足に当たりデッドボール、この1球で杉谷も降板し岡野が登板。
馬場をレフトフライに打ち取るが、代打青石のセンター前タイムリーで再び同点。続く楠本にストレートのフォアボールを与え、1アウト満塁から最後は古宮が押し出しを選び、壮絶な打撃戦は智弁和歌山のサヨナラ勝ちで幕を閉じた。

帝      京 000 200 028 =12
智弁和歌山 030 300 205X=13
(2006年夏)

帝京は逆転して9回裏に持ち込んだが、大田投手への代打が裏目に出た形となる。野手を登板させるもストライクが入らず四死球を連発して再逆転を許した。しかし逆転しなければ9回裏の守りはなかったため正しい采配だったとも言えるだろう。この試合は9回表の3ランの後に救援し初球で打ち取った松本が勝ち投手となり、サヨナラのランナーを初球デッドボールで出した杉谷が負け投手となったため、勝利・敗戦投手両方が1球のみという珍記録となった。他にも両軍1試合7本塁打、智弁和歌山のチーム1試合5本塁打など数多くの大会記録が生まれている。

黄金時代が終焉した1球(2007年夏 駒大苫小牧)

2004年夏に北海道勢初の甲子園優勝、2005年夏に57年ぶり史上4校目の夏の甲子園連覇の偉業を達成した駒大苫小牧。2006年夏も3年連続決勝進出し、早稲田実と延長15回引き分け再試合の激闘。再試合で惜しくも1点差で敗れ73年ぶり・戦後初の夏の甲子園3連覇はならなかったが、戦後最も3連覇に近づいた駒大苫小牧は00年代最強の学校として高校野球史に名を残した。

2007年夏、駒大苫小牧は北海道勢初の5年連続甲子園出場、4年連続の決勝進出と2年ぶりの優勝を目指した。初戦は好投手野村を擁し、秋の中国大会優勝、春の甲子園ベスト8の強豪広陵との好カードとなった。
3−2と駒大苫小牧が1点リードで迎えた9回表、広陵の先頭打者がヒットで出塁すると、ボークとワイルドピッチで3塁まで進み、四球でノーアウト1・3塁のピンチを迎える。だが続く2人を内野フライに打ち取り2アウト、駒大苫小牧の勝利まであとアウト1つとなった。しかし粘る広陵の山下がショートの守備位置のわずか右を抜けるタイムリーを放ち、2アウトから広陵が3−3の同点に追い付いた。
そして続く林の打席でその瞬間は起きた。打球はセカンド正面、だがボールの処理に手間取り内野安打。暴走したランナーが三本間に挟まれた。それを刺そうとした捕手の三塁への送球が左に逸れてしまった。痛恨の悪送球、呆然とする駒大苫小牧の観客や視聴者たち。2者が還り広陵が逆転した。
9回裏、2アウトランナーなしから駒大苫小牧もツーベースヒットで粘る。そして野村−小林バッテリーの捕逸で2塁ランナーが一気にホームインし、今度は広陵のミスで駒大苫小牧が1点差に迫る。だが直後に打者が野村に三振に打ち取られ試合終了。駒大苫小牧は9回に守備の乱れが積み重なって、4年連続決勝進出の夢は初戦で潰えた。倉敷工に降雨ノーゲーム再試合で敗れて以来の4年ぶりの初戦敗退となってしまった。

広      陵 000 011 003=5
駒大苫小牧 020 010 001=4
(2007年夏)

駒大苫小牧はこの大会を最後に香田監督が引退。以降7年甲子園から遠ざかり、夏の甲子園にはこの年を最後に出場していない。まさに駒大苫小牧の最強時代に終止符を打った1球となってしまったのであった。

捕手の悪送球と一瞬の死角で決勝点(2008年夏 福知山成美)

好投手駒谷を擁し2006年の選手権大会でベスト8に入った京都の福知山成美が、今回は春季近畿大会王者として2年ぶりの出場を果たした。相手は前年春優勝、夏ベスト4、秋の明治神宮大会で優勝した静岡の強豪常葉菊川で、今大会一番の好カードとも言われた。
福知山成美・植田、常葉菊川・戸狩の投げ合いで0−0の無得点で試合は進む。常葉菊川は植田に5回までノーヒットに抑えられていたのに対し、福知山成美はランナーを出しながら相手の堅守で得点機を逃し続ける。7回裏、福知山成美は1アウト1・3塁から高久のタイムリーで待望の先制点をあげた。
8回表、常葉菊川も1アウト後戸狩が四球で出て二盗・三盗、代打北島の四球で1アウト1・3塁と粘る。1塁ランナーの代走松本が二盗を敢行した際、福知山成美キャッチャー福本の2塁へ送球が外野へ抜ける悪送球となり3塁ランナー戸狩が同点のホームイン。ここで松本が外野手の緩い返球を見逃さず一気に勝ち越しのホームへ。キャッチャーのエラーと一瞬の隙でこの回ノーヒットで常葉菊川が逆転。福知山成美の残り2回の攻撃は戸狩に抑え込まれ、2−1で常葉菊川が接戦を制した。

常 葉 菊 川 000 000 00=2
福知山成美 000 000 100=1
(2008年夏)

終始試合を優位に進め、1点も先に取りながら、福知山成美はまさかの逆転負け。内容では優位に進めても勝てないのが甲子園の難しさだろう。
一方内容では圧倒されながら積極的な好走塁で数少ないチャンスを生かした常葉菊川は、その後3回戦・準々決勝と打撃戦を制し準優勝した。打高投低の90回記念大会の中で1点の重みを感じる試合だった。

センターフライ落球事件とレフトファインプレー(2010年夏 開星)

2010年の選手権大会、1回戦最後の試合で島根の開星と宮城の仙台育英が対戦。仙台育英は3年生の木村・田中、開星は2年生の白根という好投手を擁し、開星の好打者出射・糸原も注目された。開星は春は21世紀枠の向陽にまさかの敗戦。試合後野々村監督が「21世紀枠の学校に負けたのは末代までの恥です」という発言が批判され辞任。監督が交代する中春夏連続出場を果たした。
1回裏に開星が先制するが4回表に仙台育英が追いつき、その後も開星がリードすると仙台育英が追いつくという好ゲーム。7回裏に開星が白根のホームランとスクイズで2点を勝ち越し5−3とリード。

9回表、2アウトランナーなしから連打で仙台育英が1点を返すが、続く打者をセンターフライに打ち取る。誰もが開星の勝利を確信した瞬間、センター本田がまさかの落球。2人が還り、土壇場で6−5と逆転した。
9回裏、開星も反撃し2アウト1・2塁、一打逆転サヨナラのチャンスで糸原を迎える。フルカウントとなり投球と同時にランナーがスタートする。糸原の打球は左中間に飛び、サヨナラヒットかと思われたが打球をレフト三瓶がダイビングキャッチ。ファインプレーで仙台育英が劇的な逆転勝利をあげた。
強豪同士の好カードは外野手の落球から逆転し、外野手のファインプレーでゲームセットと、外野の守備が明暗を分ける結果となった。

仙台育英 000 102 00=6
開    星 100 200 200=5
(2010年夏)

開星にとっては悔やんでも悔やみきれない敗戦だった。2年生エースの白根は翌年も甲子園に出場し、柳井学園を5−0で破ってリベンジを果たした。だがその3年後の2014年夏、またしても不運な敗戦に見舞われた(下記)。

中盤に2度のボーク 判定にも恵まれず逆転負け(2014年夏 開星)

2010年夏、9回2アウトからセンターの痛恨の落球で仙台育英に逆転負けを喫した開星(上記)。翌2011年夏はリベンジに燃えるエース白根の最後の夏、柳井学園に5−0で完封勝ちし念願の初戦突破を果たす。
3年ぶりの出場となった2014年夏、相手は2年前に春夏連覇を達成した強豪大阪桐蔭。大阪桐蔭が圧倒的有利であったが、前評判に反して初回に開星が4点を先制した。2回に四球と暴投などでノーヒットで2点を返され、3回に1点差に追い上げられるが、その裏に開星が恩田のセンター前タイムリーで1点を追加し5−3。このときもう1人ランナーがホームを狙い、センターのバックホームよりわずかに早かったと思われたが判定はアウト。この疑惑の判定で流れが変わった。
4回に大阪桐蔭が再び1点を返すと、1点差で迎えた5回表、フォアボールとヒットで1アウト1・3塁から開星の宮川投手がボークを取られ同点に追いつかれる。さらに6回表は2アウト1・3塁から併殺崩れで逆転され、2アウト3塁からまたもボークで2点差に。
6回以降は大阪桐蔭を無得点に抑え、8回に1点を返すも及ばず6−7で惜敗。大阪桐蔭打線を4安打に抑えながら、2度のボークと3回の開星の微妙なアウト判定など、守備の乱れと終始大阪桐蔭寄りの判定の前に逆転負けした。大阪桐蔭はこの大会で2年ぶりの優勝を果たした。

大阪桐蔭 021 112 000=7
開    星 401 000 010=6
(2014年夏)

開星は1993年夏に松江第一に初出場し、2000年代から力を入れ始め島根をリードする存在になった。しかし甲子園ではことごとく勝ち運に恵まれない。
1993年夏から2006年夏は4回の甲子園出場で全て初戦敗退。2007年夏、古豪徳島商に3−1で勝利し悲願の甲子園初勝利をあげる。だがそれ以降もなかなか勝てない状態である。
2008年夏は前年秋の新チーム結成から県内大会全勝で甲子園に乗り込むも、甲子園では本庄一に奥田のサヨナラホームランで敗れ初戦敗退に終わる。2009年春は中国大会でベスト4、もう1校の準決勝敗退校である鳥取城北は優勝校に延長サヨナラ負けだったため選抜出場は絶望かと思われたが、鳥取城北を抑えてのサプライズ選出で選抜初出場を決めた。そして選抜初戦では前年夏ベスト8、秋の明治神宮大会優勝の慶応義塾に4−1で勝利し、2勝目をあげた。優勝候補を破っての甲子園2勝目ということで一気に全国区の強豪になるかと思われた。2回戦は箕島に延長戦の末3−4で敗れた。

2010年春は中国大会で強豪関西・広陵を破って優勝し、強打者糸原と2年生の好投手白根を擁して、初めて有力校の1つとして甲子園に乗り込んだ。初戦の相手は21世紀枠の向陽、初めて下馬評で開星が圧倒的に有利な対戦となったが2回に2点を先制され、1−2でまさかの敗戦。試合後、野々村監督が「21世紀枠の学校に負けたことは末代までの恥です」という問題発言で全国的に非難され辞任となる。
急遽監督を変えて同年夏に春夏連続出場を決めた2010年夏は先述のように9回にセンターの落球で逆転負け。2011年夏は1勝するも、2014年夏は再び不運な敗戦でまたしても勝利をあげられなかった。

1993年夏 松江一 ●1−3新潟明訓
2001年夏 開  星 ●1−10横浜
2002年夏 開  星 ●3−6青森山田
2006年夏 開  星 ●2−6日大山形
2007年夏 開  星 ○3−1徳島商 ●3−6楊志館
2008年夏 開  星 ●4−5x本庄一
2009年春 開  星 ○4−1慶應義塾 ●3−4箕島(延長11回)
2010年春 開  星 ●1−2向陽
2010年夏 開  星 ●5−6仙台育英
2011年夏 開  星 ○5−0柳井学園 ●8−11日大三
2014年夏 開  星 ●6−7大阪桐蔭
2016年春 開  星 ●2−6八戸学院光星
2017年夏 開  星 ●0−9花咲徳栄

9回2死、一塁踏み損ね事件(2017年夏 大阪桐蔭)

2017年春の選抜で履正社との大阪対決の決勝戦を制し、5年ぶりに優勝。大阪大会準決勝で履正社との全国トップ2の天王山に勝利し、史上初の2度目の春夏連覇を目指し甲子園出場を決めた。最強のライバルと大阪大会で対戦してしまったこともあり、大阪大会に一度ピークが行ったことで春に見せた打線が沈黙。甲子園1・2回戦を苦戦する中勝ち上がり、3回戦で2年前の準優勝校仙台育英と対戦。
この試合も大阪桐蔭打線は奮わず、投手戦となり7回まで0−0。8回表、1アウト2塁から中川のレフト前タイムリーでようやく大阪桐蔭が先制した。1−0のまま9回裏2アウトランナーなし。あとひとりというとこからヒットと四球で2アウト1・2塁とされるが、2年生投手柿木が仙台育英の若山をショートゴロに打ち取った。誰もが試合終了と思った瞬間…

当時のABCの実況:「ショートゴロだー!ボールが1塁に送られる。」
(ショートが1塁に送球する。が、しかし…)
「あ、足が、足が、足が離れた!1塁セーフ!1塁セーフになりました。」
当時のNHKの実況:「低めのボールでした。3アウト試合終了。」
「あ、いや、セーフだ、セーフだ、セーフです。足が離れましたセーフ!」


なんと一塁手の中川が一塁ベースから足が離れていた。再び一塁を踏んだときにはバッターランナー若山の手が一塁に到達しており判定はセーフ。
2アウト満塁と一転してピンチに。そして続く仙台育英の馬目がセンターオーバーの逆転サヨナラヒット。先制点をあげた中川の痛恨のカバーミスという信じられない結末で2度目の春夏連覇の夢は潰えた。

大阪桐蔭 000 000 010 =1
仙台育英 000 000 002X=2
(2017年夏)

この年の春の甲子園で春夏通算6回目の優勝を果たした2010年代の全国最強の学校がまさかまさかの逆転サヨナラ負けで夏が終わった。内野ゴロに打ち取り、ショートの泉口は危なげなく一塁に送球、逸れることなくファースト中川のミットに収まった。その瞬間大阪桐蔭ナインは勝利が決まったと確信しホームベース上の整列に向かおうとしていた。
中川の足が一塁ベースが逸れ、一塁塁審のセーフの判定、一転して2アウト満塁のサヨナラのピンチ。一度緊張が途切れた柿木投手は一瞬で気持ちを切り替えることはできなかった。2016年の岡山大会決勝の玉野光南のように一度気持ちが切れたら一瞬で立て直すのは至難の業である。
この試合の7回裏、大阪桐蔭の一塁手中川の足が仙台育英のバッターランナー渡部と接触して負傷する事件があった。これが影響してで最後中川の足がベースから離れてしまったとも思われる。これを渡部が故意に中川の足を蹴ったのではないかとネット上で問題になり大炎上。 渡部は続く準々決勝を欠場し、チームも広陵に4−10で完敗した。
この敗戦の悔しさをバネにした大阪桐蔭は痛恨のエラーをした中川を主将、この試合の敗戦投手となった柿木がエースとなり、翌年選抜連覇、そして2度目の春夏連覇を達成した。

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