記録より記憶に残る学校

ここでは実績は少なくても、様々な名勝負・名場面で観客やファンを沸かせたチームを紹介する。「記憶より記録に残る」といいながら、実際には記録にも残ってる学校もあります。
高校野球の黎明期に出場した学校をここにあげる。

昭和中期までの伝統校

一関中・一関一(岩手)
大正5年夏の第2回大会に初出場。第1回優勝の京都二中に勝利した。2度目の出場予定だった大正7年夏は米騒動により中止、大正9年夏・昭和21年夏は初戦敗退に終わった。学制改革で一関一と校名を変えた後、昭和30年春の選抜に初出場するが第2回選手権以来の勝利はあげられなかった。
現在甲子園の勝利経験校で最も勝利から遠ざかっている学校である。平成16年の選抜に21世紀枠として49年ぶりに出場したが、拓大紅陵に敗れ史上最長ブランクでの勝利はならなかった。

桜井(富山)
昭和54年夏の初出場から夏4回出場もまだ未勝利である。3回目の出場となった平成2年夏1回戦の西日本短大付との試合は、西日本短大付が2回から9回まで1点ずつ取り8-0で勝利するという珍スコアで、マニアの間で有名。
平成19年の選手権大会に17年ぶりの出場。東福岡に8回まで3-1とリードするも、9回2アウトから同点タイムリーで追いつかれ、延長11回ノーアウト満塁から押し出しフォアボールでサヨナラ負けし、初勝利を逃した。

塚原・塚原青雲・創造学園大付(長野)
初出場は昭和41年夏、この大会準優勝の強豪松山商に善戦するも延長11回サヨナラ負け。
その後塚原青雲と校名を変更。生徒が減少し、経営難で募集を打ち切る中、生徒のほとんどが野球部員というチームで平成13年夏に2回目の出場。八頭との初戦(2回戦)は二転三転の好ゲームとなり、1点ビハインドの9回表に2点を取り、8-7で初勝利。経営難の学校の勝利に全国に感動を与えた。3回戦で近江に11-1で敗れた。
平成16年夏にも3回目の出場を果たすも、佐土原に3-1で敗れ初戦敗退。
群馬の堀越学園に経営が引き継がれ、創造学園大付と再び校名を変えて平成19年春、選抜に初出場した。旭川南に1-0で完封勝ちし2勝目をあげた(続く2回戦は関西に12-0の大敗)。

市岐阜商(岐阜)
初出場した昭和51年夏は福井に8-0、2度目の出場となった平成3年夏は明徳義塾に6-0、3度目の平成15年夏は沖縄尚学に4-0で敗れ、初出場から3試合連続、27イニング連続で得点できなかった。
平成19年に岐阜県2位で秋季東海大会に出場。選抜初出場を目指して挑んだが準々決勝で常葉菊川に敗れ惜しくも補欠校だった。生徒の減少により廃校・立命館大学への移管案が浮上し、学校存続の危機の中で、平成20年夏の選手権に4度目の出場を果たした。
初戦となる2回戦は、香川西に先制されるが4回に吉村のセンター前への同点タイムリーで、31イニング目にしてついに初得点、さらに犠牲フライで逆転した。5回に再び追いつかれるが6回谷の2ランが決勝点となり甲子園初得点とともに初勝利もあげた。続く3回戦で聖光学院に逆転負けしベスト8進出はならず。その後学校は無事存続している。

高松一(香川)
出場回数は4回。昭和24年春は1勝してベスト8、昭和24年夏は2勝してベスト4、昭和26年夏は3勝してベスト4、昭和47年夏は2勝してベスト8と、4回の出場で全てベスト8以上に進出している。まだ甲子園の出場校数が少なかった時代の出場ばかりだが、4回以上の出場でベスト8進出率100%は唯一である。

熊本工大高・文徳(熊本)
熊本工大高校時代の昭和53年夏に初出場し3回戦まで進出。文徳と校名を変えて2度目の出場となった平成9年夏は市船橋に序盤9-1のリードから投手陣が打ち込まれ大逆転負け。8点差は現在でも最大得点差の逆転劇である。

首里(沖縄)
昭和33年夏、40回記念の選手権大会に沖縄県勢として初めての甲子園出場。初戦で敦賀に3-0で敗れ、選手は他校と同様に甲子園の土を拾い持ち帰った。しかし沖縄がアメリカ統治下にあったため、植物検疫により処分された。そこで日本航空のステュワーデスが甲子園球場周辺を海岸の石を拾い集めてモニュメントとして首里高校に寄贈し、「友愛の碑」として現在でも飾られている。その後昭和38年夏に日大山形を破り初勝利をあげた。

石川(沖縄)
昭和50年夏に初出場。1回戦で新潟商に4-3で勝ち、2回戦でも浜松商を5-2とリードするが、7回に2点を返され、9回に高林の逆転サヨナラホームランで6-5で敗戦。これは夏の大会初の逆転サヨナラホームランだった。平成元年に2度目の出場を果たすが初戦敗退に終わっている。

1980年代

1980年代はKKコンビの他、愛甲猛・荒木大輔・水野雄仁など多くのスターを輩出し高校野球の全盛期との呼び声も高い。それ以来出場はない学校も、様々な名勝負を演じている。1983年~1985年と1987年に出場した一部学校は「KKコンビと戦った学校」に掲載。

帯広農(北北海道)・益田(島根)
帯広農は昭和57年夏に初出場、益田は昭和53年春と昭和57年夏の2度の出場がある。初戦で両校が対戦し、9回表に4アウト事件という高校野球史に残る誤審があった(詳細)。
勝利した益田は2回戦で中京に5-0で敗れている。4アウト事件とともに語り草になる両校である。
帯広農は2020年春に21世紀枠で2度目の甲子園出場を決めたが、新型コロナウイルスの影響で大会中止。幻の2度目の甲子園出場となったが、2020年夏に交流試合の開催が決定した。

小松(石川)
2度の出場経験がある。初出場は昭和61年夏。初戦は名門高知商と対戦し、8回表に2点を先制されるもその裏にすぐさま追いついて延長戦へ。11回に再び2点を勝ち越され、その裏に1点を返すも4-3の惜敗。
平成11年夏に2度目の出場。隣県の新湊との対戦となり、9回まで新湊を2安打に抑える。5点をリードしてほぼ勝利を手中にしていた9回表、守備の乱れで一挙5点を失い追いつかれる。そしてまたしても延長11回に4点を勝ち越され9-5で敗れた。2回出場し、2回とも延長戦で敗れた珍しい学校である。

大成(和歌山)  現:海南大成
昭和57年春に初出場、初戦で静岡市立に2-0で完封勝ちし、2回戦は投手戦の末中京に0-1で敗れた。中京はこの試合で甲子園100勝を達成している。また1980年代で試合時間が最短の1時間24分だった。
昭和62年春に部員僅か10人で二度目の出場、現在でも最少記録である。途中まで3-1とリードするも、8回に東海大甲府に1点差とされ、9回に犠牲フライとセンター前ヒットで惜しくも逆転負けした。
平成20年に海南の分校となった。上位進出はないが、記憶にも記録にも残る学校といえる。

鳥栖(佐賀)
3回の出場経験がある。初出場した昭和58年夏は1回戦で桜井に勝ち2回戦に進出。平成13年春は尽誠学園に14-1で大敗し初戦敗退。
平成14年夏に3回目の出場。1回戦は桐光学園との投手戦となり、0-0のまま延長にもつれる。13回表に桐光学園の主将船井に決勝のランニング3ランホームランを浴び惜しくも敗れた。県内有数の強豪だが春1回・夏2回しか出場していない。
次の年の平成15年夏にベスト8に進出した鳥栖商とよく間違われる。こちらは選手ではなくチアリーダーが有名になってしまった学校である。

都城商(宮崎)
昭和56年夏、初出場でベスト8進出。3回戦の岡谷工戦は延長戦にもつれ込む激闘となり、延長12回に加藤のサヨナラホームランで劇的勝利。その後幾度となく県大会上位に進出するもあと一歩で2回目の出場を果たせないでいた。
平成21年夏、新西・藤本の左右2枚看板でついに28年ぶりの出場を決めた。1回戦で前年春準優勝の聖望学園に5-1、2回戦で三重に8-3で快勝し、3回戦は強豪智弁和歌山と対戦。智弁和歌山の高嶋監督は前の試合で歴代最多勝利記録に並び、記録更新がかかっていた。初回に都城商が3点を先制、直後に1点を返されるが4回に再び突き放し4-1で勝利、28年ぶりのベスト8進出を決めた。準々決勝は優勝した中京大中京に6-2で敗れている。
初出場でベスト8に進出したあと、四半世紀以上のブランクを経て出場し再びベスト8に進出という、全国的にも稀な戦跡を残している。

平成・21世紀の新鋭

元号が昭和から平成に変わった1990年代に台頭した学校。その中にはその後出場してない学校もあれば、常連校となった学校もある。21世紀に入り、高野連では選抜に困難を克服したり他校の模範となるチームを選出する「21世紀枠」を新設した。新時代を迎えた1990年代と2000年代に台頭した学校をあげる。

樹徳(群馬)
平成3年と平成4年の夏に連続出場。初出場の3年夏は優勝した大阪桐蔭に11-3で敗れた。翌年は近江に8-1で勝利し、2回戦で天理に3-2でサヨナラ負けした。この2年間出場した戸部投手はのちに千葉ロッテに入団している。
出場は2回のみだが近畿地区の強豪3校と対戦してることもあり知名度は高い。平成20年夏に16年ぶりに県大会決勝に進出したが桐生第一に敗れ、翌年も決勝で涙を呑んでいる。

世田谷学園(東東京)
平成5年春のみの出場。初戦(2回戦)で北嵯峨に4-3で競り勝ち、3回戦で駒大岩見沢に敗れた。東京の実力校として知られているが、帝京など他の強豪校の壁が厚く甲子園出場はこの大会のみである。
平成17年夏、東東京大会初戦で安田学園の野手・古松信彬と世田谷学園の投手・古松義彬による双子の兄弟対決があった。両者別々の高校に進学し、最後の夏に起こったまさかの対戦。「143分の1の偶然」として取り上げられた。
7回裏に安田学園の古松信彬(兄)が世田谷学園の古松義彬(弟)のストレートを振りぬいてホームランを放った。しかし試合は世田谷学園が8-6で勝利。全国が注目した双子対決は弟の義彬が勝利。試合後兄の信彬に「お前の分も甲子園に行く」と誓ったが、準決勝で日大豊山に敗れた。

那覇商(沖縄)
平成6年に春夏連続出場。春は高知商に6-0で完封負けしたが、夏は強豪横浜に4-2で勝利し、続く3回戦でも優勝した佐賀商に2-1の接戦を演じた。
横浜との初戦(2回戦)、超高校級スラッガーの紀田に対して4打席全て敬遠気味の四球を与えるという、明徳義塾-星稜戦での松井への5打席連続敬遠を髣髴させる出来事があった。明徳義塾の事件は今でも度々語り草になっているが、こちらは2度目のことであったからか、ほとんど話題になることはなく那覇商に対して激しい野次が飛ぶこともなかった。紀田選手は談話で「松井を思い出した」と話し、悔しい思い出となっている。

能代商(秋田) 現:能代松陽
初出場したのは1980年代だが、21世紀以降に台頭した学校の印象が強い。昭和60年夏初出場。1回戦で久留米商に4-0で敗れる。ちなみに能代商が試合をした日は1985年8月12日、あの日本航空123便墜落事故の日であった。
2度目の出場は丁度四半世紀後の平成22年夏。このとき秋田県勢は平成10年夏から1県1代表制以降最多の12年連続初戦敗退中だった(前年は好投手を擁する明桜が出場するも延長サヨナラ負けでまたしても連敗ストップならず)。県内でも全くノーマークからの甲子園出場だったため期待は低かったとはいえ、結果は鹿児島実に15-0で3塁も踏めず大敗、県勢の連敗を13に伸ばした。

しかし能代商はこの敗戦をバネにしていた。その年の秋から練習場に鹿児島実戦のランニングスコアを貼って練習したのだ。そして翌平成23年夏、この年も下馬評は高くなかったが2年連続の甲子園出場を果たした。
初戦の相手は奇しくも前年夏と同じ鹿児島代表の神村学園。再び大敗するかと思われたが、4回に甲子園初得点をあげ、前年とは見違えるように5回まで僅差の接戦を演じる。1-3で2点リードされた6回表、能代商は4番山田のライト前タイムリーとエラーで同点に追いつき、平川のタイムリーと犠牲フライでこの回一挙4点をあげ逆転に成功。甲子園で初めてリードを奪う。その後神村学園の守備妨害などもあって最後までリードを守りきり、5-3で甲子園初勝利と秋田県勢念願の14年ぶりの夏の勝利をあげた。前年大敗した能代商の成長も感じられたこの勝利に能代商の関係者、秋田県民だけでなく、2ちゃんねるの高校野球板も大いに沸いた。
2回戦ではドラフト候補の松本投手を擁する英明に2-0で完封勝利。秋田県勢16年ぶりの1大会2勝をあげる。3回戦は如水館と対戦。この試合でも能代商は善戦し1-1の同点のまま延長戦に突入。12回表、能代商は1点を勝ち越し勝利を引き寄せる。しかし12回裏、2点を取られ惜しくもサヨナラ負け。ベスト8進出はならなかったが、前年0-15で大敗したチームとは思えない活躍をした能代商に盛大な拍手が送られた。

能代商は平成25年3月を最後に合併で廃校になることが決まっていた。直後の秋季東北大会に出場するが初戦で古川学園に10点差からまさかの逆転サヨナラ負けを喫する。能代商にとっても最後の夏となった平成24年夏は3年連続秋田県大会決勝に進出、2点リードで9回裏を迎える。しかし9回裏に3点を奪われ逆転サヨナラ負けし、能代商の夏が終わった。
現在は能代松陽の校名で秋田の有力校の一角に君臨している。

日章学園(宮崎)
平成14年夏初出場、同じく初出場の興誠との打撃戦が知られている。この年のチームは前年秋から宮崎県内無敗で、初出場ながら有力校だった。しかし22安打を放ちながらここ一番で堅守に阻まれ興誠に9-8で惜敗した。その後はあと一歩で甲子園出場を逃し続けていた。
平成31年春に2度目の甲子園出場。準優勝した習志野に2-8で敗れ

宜野座(沖縄)
平成13年春に初出場、記念すべき21世紀枠第1号の学校の1つである(もう1校はこの大会のみの出場の安積)。岐阜一、桐光学園を破り、準々決勝では浪速に延長11回の末4-2で競り勝ち、ベスト4まで進出した。準決勝では仙台育英に7-1で敗れたが、平成21年春の利府とともに現在でも21世紀枠の最高成績である。
同年夏にも連続出場。初戦で仙台育英と再戦し7-1で勝利。春と逆のスコアでリベンジを果たした。しかし2回戦では日本航空にまさかの敗戦。翌14年春に3季連続出場したが近江に敗れて初戦敗退、その後は出場してない。

至学館(愛知)
平成23年夏初出場。校歌がJ-POPのようだと愛知大会のベスト4に進出したあたりから話題になりはじめ、甲子園出場を決めると一気に注目度を上げ、7月30日の夜には校歌がYahoo!ニュースのトップ記事で取り上げられた。
初出場で目立った選手がいないにも関わらず、大会前からこれだけ話題になった学校はあまりないだろう。試合は東大阪大柏原に8-1で敗れ、甲子園で勝って校歌を歌うことはできなかった。
平成29年春に2度目の甲子園出場を果たすが市呉に延長12回4-5で惜敗、またしても初勝利はならなかった。

出場未経験校

ここに挙げる学校は全国の経験がなく、地方大会の1回戦突破もままならないチームも少なくないが、地方大会で名勝負を演じて有名になった学校である。

岩見沢農(北北海道)
平成19年から21年まで所属していた南投手は、Yahoo!掲示板の人気トピック「各都道府県別知名度調査」にaibu373のIDで参加しており、当時大いに盛り上がった。学校としては昭和62年夏・63年夏・平成11年夏に南北海道大会ベスト8に進出し、平成11年夏は準々決勝で駒大苫小牧に5-4と善戦した。
空地支部の強豪駒大岩見沢などとともに北北海道に移籍した初年度の19年夏は空地支部予選決勝で敗退。しかし同年の秋は空地支部予選を通過し秋季北海道大会に出場、初戦で苫小牧工を破りベスト8まで進出した(このときは高橋と植松の継投だった)。
さらに翌20年の春季北海道大会にも出場し、初戦は南が先発。白樺学園に延長11回の末惜しくも敗れたが、ここから注目度が一気に上昇。知名度トピック参加者の活躍にこの夏の代表校予想アンケートの「甲子園に出てきてほしいチーム」でなんと岩見沢農が2位タイの10票の得票、代表校予想でも数人の支持を受けた。
「知名度トピックから甲子園球児誕生を」と参加者全員が期待する中、夏の空地支部予選を3年生高橋・植松、2年生南の3投手リレーで勝ち進む。決勝で滝川西に3-2で敗れ惜しくも北北海道大会出場はならなかった。
新チームは南がエースとなり、滝川西との再戦に勝利、2年連続の秋季北海道大会出場を決めた。結果は函館大有斗に敗れ初戦敗退。翌21年の春季大会は支部予選で敗退する。
そして南にとって最後の夏は、序盤から滝川西・駒大岩見沢と続く厳しい組み合わせとなるも、知名度トピックから多大な声援を受けて初戦の滝川西戦に挑んだ。初回に5失点、2回にも2失点で途中降板、8-0のコールド負けに終わった。しかし3年間球児として活躍した南(aibu373)に管理人つんゆみをはじめ知名度トピック参加者からの暖かい言葉が贈られた。

深浦(青森) 現:木造深浦
記憶にも記録にも残る、全国区の無名校と言っても過言ではないだろう。平成10年夏の青森大会で、東奥義塾に122-0という脅威のスコアで大敗し、地方大会ながら全国に取り上げられた。
この年の深浦は部員不足のために、野球経験のない他の部からも選手を補充して出場していた。初回に1時間近くの猛攻で39点を奪われ、その後も東奥義塾が加点し5回終了時点で高校野球新記録の92-0。本来ならコールドとなるがこの年の青森大会では5・6回でのコールド制はなかったため続行された。深浦は監督から試合放棄も薦められた。結果は122-0の7回コールド、しかしこれだけ点差が開いても最後まで戦い抜いた深浦ナインの根性は人々を感動させ、神奈川県では平成13年に道徳の教科書に掲載された。一方手抜きは相手に失礼であるとして、最後まで手を抜かなかった東奥義塾も評価された(ちなみに次の試合でコールド負けを喫した)。一方でこのような選手を補充しなければならない学校が参加してもいいのかという声もあった。
その後深浦は毎年注目を集め、平成16年に松風塾を13-6で下しついに悲願の県大会初勝利を果たした。平成19年に先述の木造の分校となった。
木造高校深浦校舎となってからは何度か県大会初戦を突破し、平成21年夏の青森大会では3回戦で八戸北に7回まで2-1とリード、初の2勝目まであと一歩に迫ったが8回裏に3失点し惜しくも逆転負けした。

浦安南(千葉)
平成15年夏の千葉大会で、オーバーランで試合終了という珍事があったチーム。1回戦は不戦で、2回戦で1回戦勝者京葉工との対戦だった。序盤から大きくリードされ22-0で迎えた5回表、あとひとりでコールド負けという状況で2アウトから代打佐久間が意地のヒットで出塁。さらに京葉工捕手のパスボールで2塁に進むが、2塁ベースをオーバーランしてしまい、戻ろうとしたところをタッチされゲームセット。前代未聞の幕切れとなった。
実は佐久間は部員不足のために大会直前に他の部から補充した選手だった。毎年部員不足に悩まされ、この年は7年ぶりの大会出場。何としても大会に出場するために部外から選手を出場させるケースは全国にあり、先述の深浦とともにその象徴といえるケースである。2ちゃんねるでは深浦と並ぶ人気校だが一般では知られてない。
平成23年に発生した東日本大震災により校舎が液状化したため、同年4月より船橋旭高校に一時移転した。

大島南(東東京) 現:大島海洋国際
伊豆大島にある都立高校。創部以来東東京大会で1勝しかしていないが、唯一の勝利だった平成6年夏の羽田戦は記録にも記憶に残る試合だった。羽田に19-4と大きくリードされコールド負けかと思われたが、4回以降に26点を叩き出し30-22と逆にコールド勝ち。全国で最大となる15点差からの大逆転勝利をおさめた。

帝京商工(西東京) 現:帝京大高
帝京大学の付属校で、東東京の帝京との関連はない。2度甲子園出場を手中にしながら結果的には出場できなかった学校である。
当時帝京商の校名で昭和14年に東京大会で優勝したが、高等小学校の選手(のちに中日に入団した杉下茂)を出場させたことが発覚し、選手資格違反で優勝取り消しとなった。なおこのとき準優勝だった日大三中も選手資格違反があり、3位の早稲田実が出場した。上位2校が出場辞退したのは史上唯一である。
その後昭和44年の秋季東京大会で準優勝し、翌45年の選抜出場が確実とされたが火事により資料が焼失し、戦力分析が不能として落選した。これを不服とした帝京商工は大阪地裁に選抜代表校決定の仮処分を申し立てたが取り下げられた。
優勝を取り消された昭和14年以外にも夏の東京大会には4回進出、「西(東京)にも帝京あり」と呼ばれた時期もあったが、甲子園出場は果たせないまま廃部となった。平成21年に復活し、再び西東京大会に出場している。

大野東(福井)
平成15年夏、福井大会で敦賀気比と3日間に渡る激闘を演じたことで有名。延長15回引き分け、再試合も15回で決着がつかず、再々試合は6-1で敦賀気比が勝利。実に39イニング目で勝負が決した。無名校が全国大会常連校に健闘した試合だった。

天王寺商(大阪)
昭和47年夏の大阪大会での勝利を最後に府大会で1勝もしておらず、全国最多となる38連敗を喫している学校。平成24年度を最後に周辺の学校との統合が決まり、その直前の平成22年夏ごろから注目され始めた。統合前の現校名での勝利をOBは願っている。
平成19年夏は3点を先制された直後に同点に追いつき、結果はコールド負けしたが同校の吉原監督が最も勝利に近づいた大会だと話している。

畝傍(奈良)
1897年・明治30年に創立した伝統校。昭和16年夏の奈良大会で優勝し、全国大会出場を決めていたが第二次世界大戦により中止。その後昭和45年・56年夏の2度の県大会決勝進出も、現在まで1度も出場していない。
平成20年には選抜高校野球21世紀枠候補に選ばれ、近畿地区推薦にも選ばれたが最終選考で落選し、67年越しでの悲願達成はならなかった。

緒方工(大分) 現:三重総合
1県1代表制となる前の昭和50年夏に中九州大会準決勝で九州学院に敗れた。単独枠が与えられた昭和52年夏は大分大会決勝で3点を先制するも、6回に逆転され5-3で津久見に敗れ、またしても甲子園出場はならなかった。その後県大会での上位進出は平成8年のベスト8のみである。
平成14年夏の大分大会1回戦、中津北に9点差からの逆転サヨナラ負けという伝説の試合があった。この試合は9回表に雨が激しくなり投手の制球が乱れ、緒方工は7点を追加して14-5とし勝負ありかと思われた。ところが、この状況は緒方工投手にとっても同様であり9点差で迎えた9回裏2死1・2塁からフォアボールのあと、タイムリーでまず2点、5連続フォアボールで4点、ショートのエラーで1点、そして走者一掃3点タイムリーで計10点。14-15とまさかの逆転サヨナラ負け。史上最大といっても過言ではない逆転劇だった。
平成19年に三重・三重農・竹田商と統合され、現在は「三重総合」となっている。

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